<2017.3.5のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

いつも目の前に主を置く


 詩篇16篇
1.『神よ。私をお守りください。』(1節)
 書き出しは、『守ってください!』という必死の叫びになっています。
 たぶんダビデはこれをサウル王に追われてユダの荒野をさ迷い歩き、またペリシテの地に
 亡命しているときに記したのでしょう。


2.『私の幸いは、あなたのほかにありません。』(2節)
 あなたにとって、何が幸せな事でしょうか。
 ダビデは、人間的には多くの幸いを得た人でした。
 音楽の賜物があり、将軍になり、知恵に満ち、王になり、妻子に恵まれ、地位も吊誉も
 権力も手に入れた人でした。
 そのようなダビデも、人生で多くの苦難を経験しました。
 私たちにとっての苦難、試練は、自分にとって大事なものを取り去られることです。
 ダビデは多くのものに恵まれた人でしたが、敵に命をねらわれ、息子に反乱を起こされて
 地位と吊誉と命を危うくされ、子を失うなどの経験をしました。
 そのような中で彼が見出した本当の幸せは、神様ご自身との親しい関係でした。


3.神の民と生きる(3節)
 『私の喜びはすべて、彼らの中にあります。』
 これを読んだ時、私にはこう言い切れるダビデの信仰は素晴らしいと思いました。
 パウロの祈りも、ほとんど、教会の兄弟姉妹のための祈りです。
 私たちの祈りはどうでしょうか。


4.助言を下さる主 (7節)
 イエス様の御霊が私たちの心に住まわれると、霊的な理性が与えられます。
ローマ書7章25節でパウロはこう語っています。
『私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、
  心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』
 パウロが言っている『心』とは、ギリシャ語で『ヌース』という言葉です。
 これは霊的な理性を意味しています。


5.いつも目の前に主を置く(8節~9節)
(1)いつも目の前に主を置く
 私たちは毎日の生活で主をどこに置いているでしょうか。
 前なのか、後なのか、上の方にか、横に置いているのか。
 その一つ一つについてまず考えてみましょう。
 『後に置く』― それはいつも自分が先で、自分のために神があり、神は自分を助け
 てくださるかたにすぎない。
 『上に置く』― それは神を奉ってしまうことです。
 本当に私たちの生活のまん中に主を迎えようとしないので、信仰は言葉だけ、思い
 だけになってしまい、実際の生活とは少しもかかわりがないということになって
 しまいます。
 その反対に日常生活の中に埋没してしまうような『下に置く』信仰になってしまわない
 ようにすることも大切です。
 もう一つの『横に置く』― これは相対的な世界の中で神を考えていく行き方で、これでは
 いつまでたっても信仰は与えられません。
 この主人公は『いつも私の前に主を置く』と言っています。
 この『前に置く』とは、主を私を導く方、私の従うべき方とすることであり、同時にまた
 自分が下に下がるということなのです。
(2)主のご臨在のある所に喜びと楽しみがある
 どんなときにも、自分の『右腕』となってくれる存在を持つことは、私たちの人生に
 大きな安心感を与え、大きな力を引き出してくれます。
 たとえ、死という現実に直面したとしても、『絶対的な保護者』として、『信頼できる
 お方』として自分の右にいてくださると信じる者は、決して『ゆるがされない』のです。


6.復活の主イエス(10節)― メシヤ預言
 私たちの主は今も生きておられます。(参照 詩篇18:46)
 ダビデの生涯を考えると、サウルからやりを投げつけられたり、サウルの部下から追われ
 たり、この世において死の危険から神様が守ってくださったという意味があります。
 しかし、それ以上に、ペテロはペンテコステの時にこの言葉を、死からよみがえられた
 キリストを預言していた言葉として70人訳から引用して語りました。