<2017.6.18のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

神の聖所に入る


 詩篇73篇
1.詩篇73篇の背景
 今も昔も、神に仕える人は一般人より特別な信仰を与えられていると思われがちです。
 しかし、この詩篇はそうではないと伝えます。
 アサフのようにイスラエルの民の賛美を導く優れた指導者であったとしても、時には悩み、
 神の言葉を疑い、時に信仰が揺れ動くという現実を教えてくれます。


2.人生の上条理 73:1~12
 73:2『しかし、私自身は、この足がたわみそうで、私の歩みは、すべるばかりだった。』
 当時の文化では、『足』と『歩み』という言葉は人生の生き方(『道』)と関係していました。
 アサフの『足がたわみそう』だった、とは『足首をねじる』また『転びそうになる』という
 意味があります。
 つまり、アサフの心は信仰的につまずく寸前だったことを示します。
 正直者がバカを見、神を畏れぬ者が富み栄えている世の中です。
 まじめで善良な人が虐げられ、上敬虔な者が安逸をむさぼっています。
 記者は、なぜ義なる神はかくも上公平なのかと矛盾に嘆いています。
(1)健康に狂いが生じる時
 この詩篇を書いた時点で、アサフはおそらく老年にいるか、病を患っていたと考えられます。
 26節に『この身とこの心とは尽き果てましょう』とあるので、彼の体に痛みが走っていたと
 考えられます。
 ・42歳でガンで亡くなった父。
(2)愛する妻や子などを病や事故で失ってしまう時
(3)自分の主義や信念を曲げなければならない時 ― 内村鑑三のエピソード


3.信仰者の悩み 73:13~16
(1)ねたみ 
 73:3『それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。』
  ①カインのアベルに対するねたみ
  ②ヨセフの兄たちのヨセフに対するねたみ
  ③窪寺先生の牧師夫人セミナーでの講義から(6月6日)
  『わたしとあなた』の関係の問題は、しばしば『わたしとわたし』の関係の問題の中にある。
  わたしと愛の神様との関係により私たちは変えられることが可能。
  どんなに私たちがだめでも、神様は私たちを愛し、救ってくださる。
(2)この世的な基準で幸福度を測っているところに苦悩は深まっている
  ①成功者でありたいという自我 73:2~3
  他人と自分との比較。
  ・金沢泰裕先生のメッセージから(6月15日)
  『水準』を持って生きることのわな。
  信仰義認による神の子どもの立場、きよい者としてくださったという身分の中で恵みに感謝
  しつつ私たちの奉仕、伝道へと導かれる必要がある。
  ②この世的な基準 73:4~12
  1997年8月26日の散歩中の経験 ― 野の花のこと


4.神の聖所に入る 73:17~28
(1)主を認め畏れる時に聖所に入る
 73:17『私は、神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟った。』
(2)聖所に入る時、神のご臨在こそが最高の幸福であることをさとる 73:28
 環境に左右されない喜びと平安がそこにあります。
(3)聖所に入る時自らの愚かさと無力さを認め、告白する 7:21~22
(4)聖所に入る時、神の視点で物事が見えてくる 73:18~20
 神の義、裁き。罪の支払う報酬のおおきいこと。
 アサフの心が変わったのは、自分の内面を見つめて悟りを開いたからではありませんでした。
 自分の中にはない、神のことばを聞いたことによって真理を悟ったのです。
 73:24『あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。』
 この神に導かれるならば、私たちは栄光のうちに受け入れられるのだと悟るのです。
 ある聖書ではこの『栄光のうちに』というところを『天国に受け入れてくださる』と訳しています。