<2017.7.9のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

窮した者の祈りを顧みられる主


 詩篇102篇
1.悔い改めの祈り
(1)悔い改めの祈り
 詩篇102篇は七つの悔い改めの詩篇の一つですが、この詩篇には悔い改めの言葉はありま
 せん。
 『悔い改め』というのは、間違った方向を改めて正しい方向に進みだすということです。
 この詩篇は途中から正しい方向に向かい始めていますから、確かに悔い改めの詩篇であると
 いうことが言えます。
(2)インスタントラーメンの祈り(自動販売機の祈り、電子レンジの祈り)(2節)
 今は便利な時代になりましたので、私たちはどんどんせっかちになって、ますます自分本位に
 なってしまっています。
 この詩篇がつくられたのはおそらく今から2500年ほど昔のことですが、その頃から人は
 神に向かってずいぶん自分勝手な祈りを繰り返していたことになります。


2.誰にでも悩みの時はやって来る
(1)誰にでも悩みの時はやって来る
(2)自己憐憫のわな (3節~10節)
 『私は』『私は』『私は』...こんなにみじめで可哀想なのです。
 そういう訴えの言葉がひたすら続きます。
 しかも、非常に詩的な表現で自分の苦しさをいろんなものに例えて表現しています。
 みんなが私を馬鹿にして、私は悲しみの代吊詞である『灰』が食べ物、飲み物は『涙』と
 訴えて、やがて一つの結論にたどり着きます。
 『それはあなたの憤りと怒りとのゆえに、あなたが私を持ち上げ、投げ出されたから
 です。』(10節)
 私がこれほどまでに可哀想なのには理由がある。
 それは『あなたのせいです』、『あなたが憤り、怒って私を投げ出したからです』。


3.心を注ぎ出す祈り
 自己憐憫に陥りながらも、この詩篇の記者の素晴らしい点は、神様の御前に心を注ぎ出して
 いる点です。
 詩62:8『民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出
 せ。』
 参照 ヒゼキヤ王の祈りと癒し(イザヤ38:1~8)、ハンナの祈り(Ⅰサムエル1章)


4.窮した者の祈りを顧みられる主 (16~17節)
 祈り手は見る方向を改め、自分から目を離し、神を見上げようとします。
 そして、見るべきは神からのまなざしであると気づくのです。
 12節以降で、ようやくこの祈り手のいる世界が見えてきます。
 『シオン』という言葉が何度も何度も繰り返されます。
 神がシオンを、彼らイスラエルの人々の住んでいる都をどのように見ておられるのかが見え
 て来ます。
 バビロン捕囚が終わって、イスラエルの民がエルサレム、かつてシオンと呼ばれたこの都に
 再び帰って来ることができるようにされたのだということが見えてきます。
 しかし、そのように気付くのには少し時間がかかります。
 神への祈りは電子レンジのようにはいかないのです。
 自分本位な祈りであったとしても、神はその祈りをないがしろにはなさらなかった。
 この祈り手はそのように言うことができるようになっているのです。


5.新しく造られる民の特徴は賛美
 『次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が、主を賛美しますよう
 に。』(詩篇102:18)
 円熟したクリスチャンの特徴は、のちの世代のことを考えていることです。
 神を賛美する時に、神が主権者であることを認め、神のうるわしいご性質と力を認めていま
 す。
 賛美は性質上、利己的ではありません。
 賛美は中心を自己から神に移します。
 賛美は自己を忘れさせます。
 高らかな賛美のある所では、サタンは無力になり追い払われてしまいます。