<2017.8.13のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

私の助けは、どこから来るのか


 詩篇121篇
 表題に『都上りの歌』とあります。
 詩篇120~134の15の詩は『都上りの歌』となっています。
 イスラエルの民は必ず、過越、五旬節、仮庵、の三度の祭りの時期に東西南北どこからも
 シオンの山々の頂に位置するエルサレムに集まることが定められ、そのときに人々が詠む
 詩とされていて、エルサレムへ上るときの詩となっています。 (参照 申命記16:16)


1.助けはどこから(1、2節)
 巡礼の旅は、決して楽なものではなく、険しい小道や、淵や谷間、野獣が潜むような山々を
 越えての旅です。
 そこで人々は旅の上安を抱きます。
 『私の助けはどこから来るのだろうか』と。
 私たちも人生においてその旅を全うするために助けが必要です。
 しかし、詩人はここで主への信頼を告白しています。
 『私の助けは、天地を造られた主から来る』と。
 主は天地を造られたお方、全能者であって無から有を創造されたお方です。
 このお方からこそ助けは来ると信仰を告白しています。


2.まどろむことなく守られるお方(3、4節)
 主は見張りのように見守っていてくださいます。
 見張りは危険、困難をいち早く察知して見逃しません。
 人間は時に居眠りし、まどろみ、見過ごしてしまったりしますが、神はそうではありません。
 幼い子どもが病気の時に、母親が一睡もしないで付き添って看護するほどの真実な愛をもって
 神様が私たちのすべてを見守ってくださっていることを示しています。
 私たちの人生に起こる様々な出来事のすべてを寝ずの番をして神が見守ってくださっておられ
 るのです。
 神に信頼し従う者は、次のように告白できるのです。
 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての
 ことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ロ*マ8:28)


3.おおう陰として守られるお方(5、6節)
 『主は、あなたを守る方、主は、あなたの右の手をおおう陰。』(5節)
 『右の手をおおう』とあります。
 右の手は基本的には、戦うにも仕事をするにも利き腕です。
 利き腕は特に、その人特有のすぐれた資質や賜物や働きを表わしています。
 右の手は、その人の命、人生そのものです。
 主は、私たちの右の手を覆う陰となって、私たちのすべてを守って下さいます。
 また人の『右』は、詩篇109篇31節によると、裁判の時に弁護人が立つ位置です。
 主は貧困に喘いで財産を失い、身を寄せるところを失った貧しい人間の弁護者として
 『右に』立ってくださいます。
 また、罪を犯して落胆している者の右にも立ってくださいます。
 また傷つき、病み、倒れそうな人の命の弁護者として、その人の『右』に立ってくださいま
 す。
 昼は太陽がじりじりと照って、気をつけないと日射病になってしまいます。
 夜は月が打つというのはぴんと来ないかもしれませんが、この地方では、月の光をまともに
 受けると病気になると考えていたようです。
 ギリシャ語では、癲癇(てんかん)という言葉は、月に打たれるという言葉から来ています。
 伝統的ユダヤ人は、『日』(太陽)とはエジプトの神々、『月』とはバビロン、ペルシャ、
 シリアの神々のことを指していると解釈するそうです。
 エルサレムに上るときに、どのような孤独な旅に思え、他の神々を信じているエジプト、
 メソポタミアの地域を通っても、あらゆる敵から神が守られる、というのです。


4.いのちをとこしえに守られるお方(7、8節)
 人生の旅路ではさまざまな災いが起こってきます。
 自然災害や病気もあれば、人災や犯罪もあるでしょう。
 しかし主はすべての災いから私たちを守り、いのちを守られるというのです。
 旅の行く道も帰る道も、つまり人生の全行程を守ってくださいます。
 そしてそれは今よりとこしえまでです。
 イエス様は言われました。
 『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます』
 (マタイ28:20)