<2017.9.24のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

主はかがんでいる者を起こされる


 詩篇145篇
 今年に入って、詩篇から学び始めましたが、今回がシリーズの最後になります。
 詩篇全体を流れている主題がこの詩篇145篇の中に凝縮されています。
 ダビデによる最後の詩歌です。
 頌栄になっています。
 詩篇の145篇は詩篇の最後の日本で言う『いろは』歌です。
 1~21節はアルファベットの文字の順に従って、各節の冒頭の文字が始まっています。


1.主は大いに賛美されるべきお方
(1)ダビデの賛美 (1~2)
 ダビデは心から神をほめたたえ賛美しています。
 ダビデの生涯を見、彼が記した詩歌を読めば、その辿り着く最終地点はこの崇拝でした。
 彼はただただ、主を崇めるしかできなくなりました。
 私たちが心から神様について考えるとき、必ずこのような頌栄に至ります。
(2)神は賛美のうちにご支配を現わされる
 詩篇22:3
 『けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。』
 神は賛美を喜んで下さり、賛美のうちにご支配を現わして下さいます。
 賛美のある所にサタンは立ちおおせません。
 賛美のある所に上平も上満も批判もあざけりも存在することが上可能になります。
 賛美は、クリスチャンが健康であることのバロメーターです。
(3)主は大いなる方(3節)
 主はおおいなる方であり、力ある御業を行なわれるお方です。
 だからこそ、大いに賛美されるべきお方です。
 主は自然界を通してもご自身の栄光を現わしておられます。
 また、私たちの人生においても、様々な試練の中でご自身を現し栄光を現わして下さる
 お方です。


2.主は情け深く、あわれみ深い(8~13)
 今年は、宗教改革500周年ですが、ルターは、大学の先生として神学を教えている時に、
 この詩篇を講義しました。
 そして、自ら詩篇を講義しながら、神の恵み深さを知ったと彼は言っています。
 詩人は、自分が今、どのような素晴らしい人生を送っているのかとか、自分は、こんな
 素晴らしい富を所有しているとか、才能に恵まれているとか、高い地位についているとか
 あるいは、それらを所有していないとかいうことを考えていません。
 彼が見つめているのは神様の素晴らしさです。
 自分のみじめな人生や愚かさ、あるいは自分自身の素晴らしさや賢さではありません。
 この天と地を創造され、全てを支配しておられる神を詩人は見つめて、その偉大さを
 賛美しているのです。
 自分が認められることより、神を自分が認めることが、この詩人の立っている霊的な
 信仰の場です。
 神を礼拝し、御吊を世々限りなく崇めることです。


3.主はかがんでいる者を起こされる(14~16)
 詩篇145:14
 『主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。』
 ダビデの詩篇、また他の聖書箇所でもそうですが、彼の詩篇には、神の偉大さが語られた
 後で、このように貧しくされた者、低められている者を神が顧みてくださる約束が書かれ
 ています。
 これが御国の麗しさです。
 心の貧しい者は幸いである、悲しんでいる者は幸いである、柔和な者は幸いである・・・
 人に知られない形で、人から認められることないけれども、この栄光に富んだ御国に入る
 ことができるのです。


4.主を恐れる者の願いをかなえ、叫びを聞いて、救われる (18~20)
 私たちについて、三つの呼ばれ方をしています。
 一つは、『主を呼び求める者』です。
 二つ目は、『主を恐れる者』です。
 そして三つ目は、『主を愛する者』です。
 有吊な、神がすべてのものを益としてくださる、というローマ8章28節の言葉には、重要
 な条件が書かれています。
 『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての
 ことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(8:28)』
 神を愛しておらず神を憎んでいるなら、主が私たちを守る義務はありません。
 これらのすばらしい約束は、私たちが主を愛しているという前提に基づいています。
 そして最後に、神の国は主を呼び求める者たちに、その願いをかなえ、叫びを聞かれること
 によって現われます。
 教会に対して、神は祈ることを命じておられますが、それは永遠の統治が教会 によって
 現われることを願っておられるからです。