<2017.11.12のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

愛は罪をおおう


 創世記9章
1.神は祝福の神
 『それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。
 〔生めよ。ふえよ。地に満ちよ。〕』(9・1)
 人間をご自身の愛の対象として創造された神が、アダムとエバを造られた後に最初にされた
 ことは、彼らを祝福することでした。
 洪水後のノアとその家族に対して、神が一番初めにされたことは、彼らを祝福することでし
 た。
 確かに神は祝福の神です。
 後に登場するアブラハム、イサク、ヤコブに対しても神は特別な祝福を与えておられます。
 神は私たちをも祝福してくださっています。
 たとえ未信者であっても、数えてみる時に多くの祝福を神から与えられていることが分かり
 ますが、イエス・キリストを信じている者には十字架の恵みを通して、罪の赦し、神の子供
 としての特権、御国の共同相続人としての立場、永遠のいのちなど、測り知れない祝福が注
 がれています。
 参照;ガラテヤ3・13~14、エペソ1章


2.人間の尊厳
 人間の尊厳の回復が主張される昨今ですが、進化論の立場を取りながら人間の尊厳を語る
 ことには無理があります。
 人間の尊厳のよりどころは、神が神のかたちに似せて人をお造りになった事実にあります。
 『しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがた
  のいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。…人の血を流す者は、人によって、
  血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。』(創世記9・4~6)
 エホバの証人は、『肉は、そのいのちである血のままで食べてはならない《との聖句から、
 輸血は血を食べることと同じだから輸血を受けることは罪であると言いますが、その主張は
 明らかに間違っています。
 この創世記九章の聖句から明らかなように、『血のままで食べてはならない』との命令は
 命の尊厳、とりわけ人間の命の尊厳を教えているからです。
 輸血によって人の命が助かることは、当然神の御心であるのです。


3.愛は罪をおおう
 『・・・カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。
  それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて
  行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。』
  (創世記9・20~23)
 ノアがぶどう酒を飲んで裸になった失態については、それ以上の罪の問題がそこにあった
 ことを多くの神学者たちが指摘しています。
 25節にハムではなく息子のカナンの吊前が出ていることから、ノアはカナンの誘いにより
 彼と戯れて全裸になったと考えられているのです。
 洪水前にあった同性愛の罪が、カナンを通して再び洪水後の世界に現されたと考えられるの
 です。
 ハムはそれを発見して、自ら恥じて息子のカナンを戒め、父であるノアを思いやることが
 できたはずです。
 しかし、ハムのしたことは、二人の兄弟に告げ口することであったのです。
 セムとヤペテは『着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、
 父の裸をおおった』のです。
 ノアは彼らの態度を喜び、祝福を与えましたが、ハムに対しては祝福を与えることはあり
 ませんでした。
 神もノアと同様にノアの息子たちの対応を見ておられました。
 そして、ノアの祈りの通りに、セムとヤペテの子孫には特別な祝福を注がれました。
 神は贖い主です。
 神ご自身がそうであるように、私たちも愛によって『覆う』生き方をするよう願っておられ
 ます。
 他人の失敗や罪を取り上げ、周りの人々に吹聴し、さらにその人をおとしめるのではな
 愛によって赦し、覆い、生かす生き方をすることです。
 ペテロは『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
 (Ⅰペテロ4・8)』と勧めています。