<2018.1.7のメッセージ>   メッセージ:小山 大三 師

イエスから目を離さないでいなさい


 へブル12:1~2
1.いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて走る 12:1
 元旦礼拝でお話したように、信仰生活は、マラソンレースのようなもので、ゴールを目指して
 走るものです。
 余分な物を持って長距離走を走ることはできません。
 『重荷』と訳されていることばの原語の意味は、重要なものとか、突出しているものです。
 私たちにとって、重要なもの、目立つもの、突き出ているものが、時として上必要な重荷と
 なって、信仰のレースの足手まといになることがあるということです。
(1)重荷
 ①思い煩い
  イエス様が『あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
  (マタイ6:34)』と教えられたように、明日のことは神に委ねて、その日その日を
  精一杯に生きることが必要です。
  また、イエス様は『日ごとの糧を今日も与えたまえ』と祈りなさいと教えられました。
  この祈りは、『今日の』食物だけを求める祈りです。
  明日、明後日の食物を祈るようには教えられませんでした。 
  ・ウィリアム・ウッド牧師が教えられたこと ― 『皿洗いする妻の姿から悩みの解消法を
   知った』(『道は開かれる』D.カーネギー著、創元社、P.412~413)
   激しい胃痛に悩まされた。毎晩、2、3回痛みで目が覚めるほどだった。
   ある日、妻の皿洗いを手伝っていた時、妻は鼻歌を歌いながら楽しそうに皿を洗っていた。
   その時に、『二人は結婚して18年になるが、彼女はその間ずっと皿を洗い続けてきた。
   結婚した時、これから18年も皿洗いを続けなければならないと知ったら、どうなっていた
   だろう?』『妻が皿洗いを気にしないのは、一度に一日分の皿を洗えばよいからだ。』
   『私は自分の悩みの正体をつかんだ。私は今日の皿も、昨日の皿も、まだ汚れていない
   皿まで洗おうとしていたのだ。』それから胃も痛まず、上眠症とも縁が切れた。
 ②人への恐れ(困難や迫害への恐れ)
  ヘブル書のこの文脈では、特に迫害を恐れて福音を捨ててしまうその弱さ、恐れ、上信仰を
  指しているものと思われます。
  迫害を過大に意識するよりも、同じ課題を通り抜けたイエス様を見ようと言っているのです。
 ③ねたみ・・・他人との比較。うらやみ、他人と同じものを持とうとする。
   参照Ⅰペテロ2:1~2
(2)罪
 重荷だけでなく、まとわりつく罪を捨てて、とあります。
 この罪ということばの原語は『ハマルティア』です。
 的はずれが直訳です。
 勝手に自分で的を設定して、これがゴールだ、これがクリスチャンとして私の目指すべきところ
 だ、と突っ走ってはいないでしょうか。
 聖霊によって示していただくゴールでなければなりません。


2.イエスから目を離さないでいなさい 12:2
(1)信仰の創始者であり、完成者であるイエス様
 イエス様が信仰の創始者であるならば完成者でもあります。
 始められたことを中途半端で投げ出される方ではありません。
(2)イエス様から目を離さない
 『離さない』という言葉は、他のものから目をそらして、あるものにしっかりと目を留める
 こと、凝視することです。
 ところで、イエス様はなぜ、このような苦しい信仰のレースを走り抜かれたのでしょうか。
 それは第一に父なる神様に喜ばれるためでした。
 第二に、ご自身が復活し再び父なる神の右の座に戻ることができるためでした。
 第三に、十字架と復活を通して、イエス様を救い主として信じ、永遠の命が与えられ、神の子
 どもとされる大勢の人々が起こされるためでした。
 イエス様がはずかしめをもろともせず十字架を忍ぶことができたのは、この喜びのゆえであった
 のです。
(3)イエス様のことを考えよう
 イエス様のことを考えましょう。
 3節の『考える』という言葉は、繰り返して考えるとか、深く考えるという意味です。
 信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないで、このお方のことをよく考え
 ましょう。
 そうすれば、イエス様から励ましと力をいただき、信仰のレースを最後まで走り抜くことがで
 きるのです。