2021.5.9 人とは、何者なのでしょう 小山 大三 師
メイン聖書箇所:詩篇8篇 【音声ブログ】
1.創造の冠としての人間 詩篇8:3~4
ダビデは神の創造された広大な天を仰ぎ、月や星を見て神の偉大さに思いを馳せました。
同時に、ちっぽけな一人の人間を知って下さり顧みて下さるお方の不思議を思いました。
(1)小さく弱い人間である自分の認識 詩篇8:2
天体を眺めて、そのあまりにもの大きさを見て、人があまりにも小さいことが分かります。
ここで『人の子』とダビデが言っているのは、『弱き者』とも訳すことのできる言葉です。
あまりにも小さく、弱い存在であるのに、神は顧みてくださっているのです。
私たちの価値は、この神の心遣いに基づいています。
(2)神に『似せて』造られた人間
『似せて』(likeness)のヘブル語『デムート』は、『半分わかって、半分分からない』ことを意味しています。
人は、自分の存在について、半分は理解していますが、半分は自分でも理解していないのです。
(3)神の『かたち』に創造された人間
『かたち』(image)と訳されているヘブル語の『ツェレム』は、『王冠』を意味しています。
人は被造物の王として創造されました。
それゆえに価値ある存在なのです。人はどの動物以上に価値があるのです。参照イザヤ43:4
(4)人はどのような意味で神のかたちに造られたのか
①主体的存在、②依存的存在、③言葉に力がある存在、④理性と知性を持った存在、
⑤道徳的存在、⑥霊的存在、⑦三位一体的存在
(5)神は人に地の支配権を与えられた
『栄光と誉れの冠』は地の支配権を象徴的に表わしています。
どんな小さき者であっても、そこには神の与えられる栄光と誉れがあります。
もし、私たちがこの栄光と誉れを知っているならば自分をこれ以上高めようと努力することから解放されるのです。
そして教会では、自分の弱さをもって主の前に来ることができるのです。
だからこそ主の栄光がそこに輝いています。
(6)万物はアダムの足の下に置かれた 詩篇8:6
2.弱く小さい人間を用いられる神 詩篇8:2
神は、敢えて弱き者、小さき 者を用いて、ご自分の力ある業を行われます。参照1コリント1:27~28
3.『栄光と誉れの冠』を 失った人間
(1)罪により地の支配権を失った人間
アダムは、妻のエバが蛇に惑わされたことによって罪を犯しました。
それは、神のように賢くなるという、惑わしでした。
主に目を向けなくても、自分で治めていこうとする誘惑です。
それで、その罪に陥り、それ以来、自分自身でやっていこう、自分本位で生きていこうと変わったのです。
それで今、人が万物を治めている姿を見ることはできていません。
むしろ、 サタンがこの世界を治めています。
4.十字架の苦しみと死をとおして『栄光と誉れの冠』を獲得された主イエス
参照ヘブル2:6~10『・・・御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての
人のために味わわれたものです。・・・』
参照 マタイ4:8-9、マタイ28:18
5.主イエスを信じる者は、キリストにあって権威を回復されている
讃美歌作者のウィリアム・クーパーがこんなことを言いました。
『最も弱き聖徒がひざまずくとき、サタンは震えあがる。』
自分はいかに小さく、価値のないような者に見えても、クリスチャンとしてしっかりしていないと見えても、
神の前にひざまずき、神に服従する時、この世の支配者であるサタンはおじけづくのです。